今年の目標 2012

昨年の今頃にも目標を立てたわけだが、そのエントリーを見返すまですっかり忘れていた。何だったっけ?と思ったら「結果を出す」だった。我ながら大風呂敷広げて何もしてないじゃん、と笑いつつ自己嫌悪。何かしらできるだろうと去年は思ってたはずなのだが、結局あれやこれやと先延ばしにしてしまった気がする。

数年前から取り掛かっている同人の方は昨年中を目標としながらあと少しを残して完成させられなかった。遅筆もあるけど体調管理とモチベーションの維持に悩まされた創作活動だった。何とか今月中にはできそうではあるが、年をまたいでしまったことに反省しきり。というか今作っているものは小手調べのようなもので、他にも作りたいものがあるし本当は大作にかかりたいし。

ヴァイオリン関係では昨年中に小粋なジャズフレーズでも弾けるようにと思っていたのだが、結局は課題や発表会の練習に追われてレッスンとは別の独習ができなかった。基礎技術は多少向上し、昨年のクリスマス演奏会以降ジャズ教則本を開いて独自練習を始められたけれどこれまた年内中は叶わなかった。

バイクツーリングはSRXで長野の友人に会いに行ったり、バイクをCB400SFに買い替えて友人moの誘いで奥多摩に行ったりしてそれなりに走ったが、これまた目標である長距離ツーリングには未だ行けていない。ましてや大型バイク免許取得はずっと考えながらも未だ行動にも移していない。

あと家の不用品の整理にも取り掛かり、ずっと放置していた2CVの処分とかゴミだしなどを積極的にやって、かなり劇的に片付けたが、途中で演奏会や同人を優先させたため、まだ半分を残して放置状態になっている。

一応昨年の目標設定で「自分探しの旅」のような漠然としたものから照準を定めた目標にはなったけれど、結果はついて行かずに2011年は準備期間で終わってしまった気がする。理想としているものは自分で考えても物凄く高いところにあるので下準備もしないでやると大怪我するのだが、ちょっと時間がかかりすぎている気がする。日本人の平均寿命から考えるとすでに半分は消費してしまったので、これから先ボケーッと過ごしているとあっという間に50になってしまう。焦る。

とはいえ焦燥感ばかりが先に立つと目標を見失いがち。やはりいい年になったのだから中長期の計画を立て、時限と優先順位をつけてやらないとならない。今のニッポンの政治や経済だって目先の利益や即効性ばかり追い求め、10年後のビジョンが描けていないからガタガタなのだ。

つーことで、今年の目標は決まった。ひとつずつ「片付ける」にしよう。まずは昨年できなかった部屋の不用品の整理でもしようか。でも年末年始からずっと勤務が入ってて当分まとまった休みがないんだよね・・・

宝毛

ここ数年、ここに長い金髪が生えるようになった。宝毛(たからげ)と言って縁起物らしい。割と mezzo は験を担ぐ方なのでなるべく抜いたり剃ったりしないようにしているが、いよいよ邪魔になったらプツンと抜いてしまう。短気だし。

でも大抵この毛の長さが伸びた頃には経済的な危機を迎えるときが多い。今月はスマホやらバイクやら、さらに税金や仕事用の資格の講習費用やらで出費が立て込んでいる。だがそんなときにこの毛がプツンと抜けて案外うまくしのげたりしている。なので心の中で金を呼ぶ金髪と呼んでいる。

「がんばれ」と「がんばろう」

こないだクルマに乗ってラジオを聞いていたら、アナウンサーが震災地でのインタビューについて語っていた。その中で被災者の「がんばれって言われても俺達は仕事があれば頑張れるが、頑張れるものが全部流されちゃってないんだよ」という言葉が紹介されていた。どこぞの首相さんは避難所に訪れて「頑張って」と声をかけたらしいが、将来の道筋も示せない指導者には被災者たちのそんな冷笑しか返ってこなかったらしい。

英語表現で「がんばれ」は “Keep your best!”(ベストを保て)などと言うが、欧米圏ではスポーツの応援で「がんばれ」などと言わないそうだ。頑張っている人に「がんばれ」と軽々しく口にするのは無礼という考え方があるらしい。その土地の文化や人によって捉え方は異なるだろうが、日本の応援合戦で聞き慣れた「がんばれ」という言葉は時として人を傷つけるので注意が必要だ。実際、心療内科ではうつ病患者に対し「がんばれ」というのは禁忌な言葉で、下手に使うと追いつめて自殺に頑張られてしまうことがあるらしい。

最近は企業CMなどで「がんばろう」という言葉が使われている。日本語の文法で「がんばれ」は命令形であるが「がんばろう」は意志形(未然形)である。「がんばれ」は上から目線だが「がんばろう」には肩を並べて一緒に歩む意思が感じられる。文法を見れば納得だがうまい表現だ。広告業界に籍を置いていたときはコピーライターと飲んで「細かい奴だなぁ」と思っていたが、さすがに言葉をメシの種にしている人たちは昨今の失言政治屋とはやはり違う。でも裏方を知っているだけに余計白々しく聞こえてしまうのだけれど。

私はものすごく鈍感なので過去に自分で気づかずに他人を傷つけていることが往々にあった。また実生活でもベラベラとしゃべり続ける奴なので言葉数が多い分ボロも出やすい。なので色々と自分の発言で痛い目に遭っているので最近は慎重に話したり書いたりするよう努めている。

以前から私が気にしているのは「形容詞や横文字を極力使わない」ということ。見た目に言葉を重々しく大人びたようにするには形容詞を並び立てればいい。そこに流行りの横文字を使えばいかにも評論家っぽくなる。誰も冗談と思ってくれなかったみたいだが、以前書いたエントリーはそれを茶化したものだ。

だが逆にそれらを除いたり単純化していくと言葉の真意が見えてくる。重厚に見えた言葉もメッキが剥がれると単なる誤魔化しやお為ごかしだったりすることがバレてしまう。昔流行った「誠に遺憾に存じます」や「前向きに善処いたします」なんていうのは結局「何もしない」ことを体裁良く言ったにすぎない。言葉は行動が伴わなければ空虚なものだ。なので自分に出来ないことは何も言わずに黙ることに最近はしている。とは言っても上司に楯突くときはオブラートに包んだり、同僚に噛み付いて論破したりとあまり実現はできていないけれど。

心に残る名文は非常にシンプルなものが多い。余計な飾りつけをしないでも強い意思を持った文は心にストレートに響く(←横文字使うてるやん)。だから私は「がんばれ」や「がんばろう」などと口に出せない。それを言えるのは本当に頑張って結果を出している一握りの人たちだけだ。

小さな春見つけた

今日、東京でソメイヨシノの開花宣言が出た。こんなご時勢なので今年は花見とかイベントとか自粛になるのだろう。ニュースもネットも政治や社会の悪口ばかりで、見ているとあまり精神的によろしくない。人間の傲慢さと無力さを思い知らされ、先の不安ばかりが募らされる。

しかしマイナス思考は何も生まない。もちろん問題はいつか解決させなければならないことではあるが、自分がどうすることもできないことまで気にかけていると気分が重くなる。身の周りのほんの小さな幸せすらも見過ごしてしまう。

夜勤明けの帰り道、まだ外套も脱げない寒い朝だったが、顔に注ぐ陽射しが柔らかく心地よかったことに気がついた。足元を見ると小さな花がそこかしこに咲き始めていた。うっかりしていたら踏みつけそうな場所にも無数の花芽がついていた。花芽を避けながら注意して歩くとさらに春の息吹を感じることができた。

この冬は寒さが厳しく、妙に長かったような気がする。しかしその冬も終わろうとしている。多くの人にとって未だ不安という長い冬が続く状態ではあるが、生ある限り春は等しくどの人にも訪れる。

足元の小さな花を見て、高尾山のトイレに貼ってあった「脚下照覧」という言葉を思い出した。坊主がトイレのスリッパを揃えさせる意味で貼ったのだろう。だが自分の足元を見る余裕があれば人は優しくなれるものだ。我々がやることは伝聞に惑わされて浮き足立つことではない。己の軸足を据えてやるべきことをやるだけだと思う。足元の花はやがて種をつけ宙を舞い、翌年にはあちこちに花を咲かせることになる。自らその未来を踏みにじることをしてはならない。

などとエラそうに書いてはいるが、私も不安で押しつぶされそうな夜がここのところ続いていた。ブログをマメに更新するなどしてテンションを上げようと必死になっていた気がする。だが足元の小さな春を見つけて少し気分が和らいだ。焦らず、ゆっくりがんばろうと思った。