会社でいろいろとくだらないことが起きていて頭がウニになるので、少し自分の頭の中を整理するためのメモ。あまり面白くないので暇な人だけ読んでね。
逝去したジャズ・ミュージシャン、エリック・ドルフィーの言葉に When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again.
(聞いた音楽は終わってしまえば、空気中に消えて二度と捕まえることはできない)というのがある。一方、自分の発した言葉をその場で端から忘れて無かったことにしてしまう無責任な人が上司にいる。まあ恐らくこの人は記憶障害なんだろうと諦めているが。
話を戻そう。ドルフィーは死後発表された最後のアルバムでそう呟いたが、実はそれまでに多くの傑作アルバムをこの世に遺している。そのどれもが音楽の可能性を追求した意欲作であり、それ故か自らの寿命を縮めたとも思われるほど。以前も某女史が言っていたが魂の量は一定なのかもしれない。
だが彼は前述の言葉の後に、こう続けたかったのかも知れない。
Because, I will try...
(だからこそ)
これは私の勝手な憶測であるが、彼は前述の言葉を自分の死後、美化されることに違和感を覚えているのではないだろうか。誰が好き好んで糖尿病患って34で死にたいと思うか。空気中に消えちゃうなんて本気で思っていたら、体の不調を圧してヨーロッパを演奏して周ることなんかしなかっただろう。本国アメリカじゃ過小評価されたため、彼は晩年をほとんどヨーロッパで過ごし、ベルリンで客死したという。自分が評価される場所があればどこへでも赴き、そして全力を尽くそうとしても表現し切れずに足掻き、苦しむ。だからこそ彼の遺した音楽は心に響き、そして後世に語り継がれるのではないか。命のキャンドルが早く燃え尽きた分、輝きが大きかったなどと評価する者もいるが、それは単なる結果論に過ぎないと私は一蹴したい。彼には遣り残したことがいっぱいあったはずだ。それを「空気中に消える」などとその言葉だけ取り上げられ、悲劇の天才ミュージシャンなどと評価されたいとは思ってはいないだろう。多分。
言葉というのは部分を取り上げられて一人歩きすることが往々にある。だからといって正確に伝えようと修飾語を多くすると、余計に話がわかりにくくなるということが谷崎潤一郎の「文章讀本」に書いてあった気がする。実際、政治家などは結論や本旨をわかりにくくする言葉が得意な人種だ。形容詞を取り除くと一気にスカスカな内容になるのでわかりやすい。
また脱線した。いずれにせよドルフィーのこの言葉だけでは、彼が何を言おうとしたのか誰にもわからない。だが私はその言葉を吐くことによって彼は自分を律したのではないかと思う。空気中に消えてしまわないように何とかしたい。形にならない何かをどうにか表現したい。そういう意気込みが私にはこの言葉から聞こえてくるのだ。葛飾北斎は人気画家となっても自ら確立したスタイルを壊し、晩年に画狂老人卍と名を改め、80になっても「猫一匹、上手く描けない」と漏らしていたという。ルノワールも72になって「絵を描くということがわかりはじめた」などと言っていたぐらいだ。私なんかが「限界を感じる」などと吐くのはおこがましいことなのだ。
二度と捕まえることができないと諦めるのか、それとも捕まえるために前に進むのか。遺すもののタイプが違おうとも、評価がどうであろうと創作者は諦めちゃイカンと思う。年齢や他人の評価でクリエイターは死ぬんじゃない。歩みを止めた時点でクリエイターは死ぬのだ。私はこれからもそう考えて自分の言葉で自分を律しようと思う。ていうか思いたい…