試験が終わって当面の懸案事項は7月末に控えたヴァイオリンの発表会。発表会前までに3回のレッスンと合同練習があるのだが、その練習の前までにある程度弾けないと、と思っている。特に弾けないフレーズは間違えながら何度も繰り返して練習しないとどうしようもない。映画「マトリックス」みたいに誰かメモリーチップを頭に差し込んで、一瞬にしてパガニーニの奇想曲でも弾けるようにしてくれないかなぁと思うこともあるが、やはり脳をいじられるのは怖いので素直に練習しよう。
人間の運動能力は突き詰めていくと脳や神経の記憶情報をどれだけ持っているかによるものだと思う。もちろん筋肉の反応速度を高める身体的訓練は必要だが、アスリートを例に取るとそれだけではトップに立てない。トップアスリートともなると自分の動きをシミュレートし、イメージした通りの動きに体を制御する能力に長けている。イメージをトレースしてコンマ何秒で動きを制御するという行為はコンピュータの働きに似ている。
しかし人間の神経系はコンピュータのメモリのように記憶を分類したりランダムアクセスできないらしい。人に道案内をするときを例に取ると、コンピュータの場合は座標軸情報から記憶領域を特定して周辺地図を表示し最短距離を検索する。だが人間は一旦自宅からの道順を思い出してからでないとできないようで、いちいち断片化した記憶をそれぞれビデオテープのように巻き戻さないとならない。歌謡曲のタイトルを失念したとき、サビまで頭の中で再生しないと思い出せないのはそのためだ。いわば人間の記憶はラベルの貼っていないビデオテープのようなもの。これらの情報をすばやく探索するにはパターン化されたシーケンス情報をたくさん作り、神経細胞のシナプスを縦横に張り巡らせて冗長化しないとならない。なので新しい記憶は経路が少ないため情報を取り出しにくい。
ただし記憶情報の頻繁な読み書きによってたくさんの経路を作り、回線を太くすればするほど神経の反応速度は早くなる。昔「脳みそのシワが増えると頭がよくなる」と言われたように、使い込めば使い込むほど頭の回転が速くなるわけだ。それにコンピュータの場合それぞれの記憶情報のフォーマットやファイル形式が違うと全く開けないが、人間の記憶は同じ脳内なら汎用性がある。曲を聴いたイメージで絵を描くとか、焼き鳥の串が回転するのを見てVTEC(ホンダの可変バルブタイミング・リフト機構)を思いつくなど、全くジャンルの違う記憶ですら連携させられる。時にはメンタルで足を引っ張られることもあるが、応用力を働かせて自ら全く新しいものを創造するという能力は今のコンピュータには真似できない。
と、脱線しながら理屈をこねたがスポーツだろうがヴァイオリンだろうが、結局は何度も色々なことを反復練習しないと上手くならないということ。メモリースロット拡張すればすぐにバッハの無伴奏ソナタなどが弾ける、と単純には行かないようだ。名前は失念したが有名なヴァイオリニストが本番曲のリハーサルを重ねるよりもセヴシック(ひたすら機械的に指を鍛えるための教本)を弾いている方がマシとか何とか言っていたとのこと。ひとつのことに集中して覚えただけじゃダメで、様々な動きのパターンをひたすらパラノイドかマゾヒスティックに反復するしかないらしい(もちろんトップを目指す人は)。
ヴァイオリンの先生はしばしば「完璧な演奏なんてあり得ないのよ」と口にする。音楽は突き詰めるところが幾らでもあって完璧はないという意味ももちろんあるが、むしろ向上心を失ったところから演奏が劣化するものだ、と戒めに説いているところがある。私も常々「こんなもんでいいや」と妥協したところから老化が始まると思っているので大いに共感できる。ただ、いつまでも引きずって生きていくわけには行かないので妥協はしないとならない。
しかしそれでも色々なものを犠牲にして完璧に一歩でも近づこうという人はごくわずかだが存在する。エジソンは「天才は1%のひらめきと99%の汗」と言っていたが、自分が「できるとひらめいたら汗かくことなど苦でもない」っていうことらしい。つまりは努力したって天才にはなれず、天才と呼ばれる人はもしかするとバカかパラノイアかマゾヒストってことになるのかもしれない。極論を言えば成功したバカは「天才」、ただのバカは「変態」ってことなのだろう。だから天才って呼ばれる人は変態が多いんだな・・・
うん、変なこと考えてないで練習しよう・・・